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第818回 生き物

 子どもたちが生き物をみつけ、捕まえることが多くなってきました。
 近くの池や小川にザリガニ、小魚、小さなエビ、などをみかけます。他にもカナヘビやカエル、カメムシや蝶の幼虫、セミや、カブトムシなどもこれからは出てきます。子どもたちは見つけると、まさに狩猟本能に目覚めるように捕まえたがり、持って帰りたがります。そこまではいいのですが、その先の「飼う」ということがはっきり分かっていない。
 ある日、放置したままのケースが外の隅に置かれていました。発見した保育者が子どものミーティングのときに、濁った臭い水の中に魚が2匹、それも1匹は死んでいると、見せて彼女の憤りを話しました。
 生き物を飼うことに関しては、子どもたちに温度差があります。家で飼えなくて泣く泣く離しに行く子もいるのですが、捕えるとこ止まりが大半です。言葉では命が大事とか、エサはなにがいいとか、どうやって飼うかなんて言えるんです。言っていたくせに、翌日は忘れている、実行が伴わないのです。
 長いこと同じような問題に出くわしてきて、いくつか考え方がある気がします。「子どもはたくさんの無駄をして、育っていくもの」だから、自覚ができるまでは仕方がない。アリさん、ダンゴムシさん、もろもろの生き物は学ぶための犠牲になっていただく、おとなは手を合わせて、ありがとうと感謝! たぶん自覚は5年生くらいでしょう。
 そうはいったって見てはいられない。命ですから、私の目の届くところだったらやめるように言います。捕ってきちゃダメと言います。おとなの目を盗んでやっているときは仕方ないけどという考え方。自覚して子ども自身が飼えるようになるまで禁止。
 そして、もうひとつ。まだ、命という実感を持てないころ、大事に飼っていた物が死んでこそ意味が分かるのではないか。だから、捕ってきたものはおとながエサをやり、掃除をして飼う。意味が分かるかどうかはさておいて、おとなが大事に世話をやく姿を見せていくという考え方です。
 どれが子どもに有効かいう正解はないですよね。
 だいたいおとなも様々です。虫をみるとキャーと逃げる人もいるし、つぶす人もいる。かと思えば大事に観察し、興味を持つ人、自分が飼いたくなる人もいます。育ってきた環境か、幼いときの体験か、本来の感覚かはわかりませんけどね。
 私の子ども時代は家の中にもクモがいたし、ヤモリも、うっかりするとネズミもいました。ゴキブリは当然、だからいちいち目の敵にはしていませんでした。さらに犬やアヒルを飼っていましたが、母は家事の一環くらいにエサをやってくれていましたから、自分で飼うという自覚はまったくなしの子ども時代でした。飼っていたものが亡くなると泣いていましたけどね。
 ここ数年、ぐうたら村の小西貴士さん(森の案内人)と会うことが多くなって、自然物への見方が変化してきている自分を感じます。生き物すべて、植物も含めて、愛おしく見ている眼差しをはじめは疑い深く眺めていました。しかし、つきあいを重ねてくると、自然のことをまったく知らない自分に気づかされると同時に、自然界を知っているからこその彼に気持ちに魅せられてきました。彼のすべてに愛おしく思う気持ちは信頼できるものになり、憧れさえ感じるようになっています。
 人は周囲のいろんな姿から育てられて行くのだと思います。たぶん一生。いろんな子がいて、いろんなおとなもいることが育っていくのに必要だということかもしれません。(2026.6.22記)