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一斉保育と自由保育

突然ですが、「一斉保育」と言う言葉をご存じですか?
これの反対は「自由保育」です。
私が保育者になった50年くらい前は一斉保育が一般的でした。つまり、カリキュラムに沿って、みんなで先生指導の下、同じことをします。そう、今でも学校は大半がこれですよね?
やがて、自由保育が登場し「コーナー保育」という自分が好きなものを選んでやるというのも現れました。さらに近年は主体性が保育業界の指針になっています。時代の流れのなかで、自分を大事にする、自分の意志を持つという個の育ちがメインになっています。ここが一般的な学校の流れと大きく違うと思います。
とはいえ、まだまだ学校教育の流れを受け、保育者も自由を保障するということに、どうしてよいかわからずに戸惑っているのが現状です。そして、半数以上の園では一斉保育を壊すことができずに、変えようとしているというのが実情と言えるかと思います。
先日「一斉保育をどうやったら自由保育に変えられるのでしょうか?」という質問を受けました。一斉保育はいけないのでしょうか? 自由が大事なのでしょうか?
ふと思いますに、どっちでもいいことが多いのではないか、どちらも一人ひとりの思いを大事尊重することなのではないかと思うのです。
わかりやすいたとえで考えて見ます。
りんごの皮をむけるようになってほしいと思ったとします。今の子は手がむしばまれているという言葉は40年の前から言われていますからね。
子どもたちにりんごを与え、ナイフの使い方を指導し、全員でむけるようにするのが一斉保育。かたや、りんごを置いておき「むきたい人は教えてあげます」とその子の自主性を尊重するので、やらない子がいてもいいのが自由。でも、この中間がある気がします。おとなが(先生)が、くるくるとりんごの皮をむいている。声をかけてもかけなくてもいい。すると気になる子が寄ってきます。「やりたい」と言うかも知れません。

「じゃあ、どうぞ」と提供します。
やがて、数人の子がその姿に憧れ集まってきます。まったく、気にしない子は今はやる気にはなっていない。けど、りんごを食べられないのは残念ですから、いつかやってみたくなるかもしれません。
実はこの学び方が、もともと家庭や地域にあった当たり前なのではないのでしょうか。
父親や母親の姿を見て、やってみたくなる。そっと手を出してみる。できるようになった子どもに「じゃあ、今度からやってくれる?」と親が頼ってくれる。
私は幼い頃お風呂が薪でした。だれに教えてもらったわけでもなく、見よう見まねでできるようになって、一週間の一日は私の担当になりました。
母の味噌汁作りを見ていて、真似して、やれるようになって家族に提供したのは確か小学校4年生だったと思います。地域には大工さんが家を建てていて、かんなを削る姿はとんでもなく格好良かったです。
子どもが学び、育っていくのは一斉に体験させるだけではなく、自由を尊重するだけでもなく、年上の人の格好良い姿でもあると思うのです。
教育が進みすぎて、おとなの考えで子どもの育ちを保障しようということに偏りすぎていくと、子ども自身の気持ちが置いて行かれてしまう。そのうち、子ども自身もやりたいとか憧れるとかより、「やらなければいけない」となり、やれない自分に否定的になってしまうのではないでしょうか。今、まさに多様性ということばが多く使われるようになりました。保育も、教育も多様な中だからこそ、子ども自身が芯を育てられるやりかたを受け止めていけるといいと思います。あせらないでいこうよと言いたいです。
先日、2025年のユニセフの先進新興国36ヶ国の子どもの幸福度調査が発表されました。日本は総合的には2020年よりあがり14位でした。身体的健康は1位です。しかし、精神的幸福度は32位です。子どもの自死数が2024年、過去最高527人と発表されました。

(5月16日 記)